2017年5月24日(水曜日)、奈良国立博物館で開催されている快慶展に行ってきました。

秋には東京で運慶展が開催される予定で、その2人が東西に分かれて展覧会があるという仏像ファンなら見逃せないものになっています。

僕は若い頃に京仏師の修行をしていた経験もあるので、つねに慶派の仏師(特に運慶と快慶)を意識していました。

特に2人の作風や制作に対する姿勢の違いから、どちらかというと快慶を強く意識していました。

運慶は天部や明王など、力強い作風が特長で関東の武士からの発注が多かったのに対して、快慶は阿弥陀如来や観音など凛として優しい作風が特長で、寺院からの発注が多かったそうです。

今回の展覧会を通して、また違った快慶の魅力を堪能したいと思います。

快慶展

後白河院との出会いから生まれた仏像たち

弥勒菩薩立像(アメリカボストン美術館蔵)

制作年代は鎌倉時代1189年と、快慶の作品としては初期のもの。

見るからに若々しい作風で、弥勒菩薩のまとった羽衣が、軽やかな風の流れに浮遊している表現が素晴らしい。

弥勒菩薩立像(アメリカボストン美術館蔵)

 

弥勒菩薩坐像(京都・醍醐寺)

入り口の金剛力士像に迎えられてから、最初に出会う仏像です。

精悍な顔立ちと、ゆったりとした衣の表現など、快慶の彫刻の特長がよく現れています。

仏像にあてられた照明で、壁に映された影が、まるで生命力を持っているような命のゆらぎを感じます。

弥勒菩薩

深沙大将立像(京都・金剛院)

引き締まった筋肉、これでもかというぐらいの引き締まった肉体美が特長の仏像。

なんだか異様な迫力があって、見ているこちら側が思わず拳をギュッと握って力を入れたくなる。

下半身の膝を覆うのは象の頭部です。パワーの象徴として、表現に用いたのでしょうか?

深沙大将立像(京都・金剛院)

千手観音坐像(京都・清水寺)

たいてい千手観音の仏像は、持物が無くなっていたり、腕や指が欠けていたりするのだけど、この仏像はきれいに全てが揃っています。

手の造形もひとつひとつが丁寧に作られているので、それぞれがうごめいているような感じがします。

そして、やっぱり快慶の作る仏像の目の表現がいいなぁとあらためて思います。

切れ長の目は、人の心を優しく癒やすようでもあり、過ちを諭すように語りかけるようでもあり、この目の表現だけでとても表情が豊かになっています。

清水寺には何度も行ったことがあるけど、どこに安置されていたのだろう。

それよりも快慶の作品があるとは、思ってなかったので、今度はお寺のお堂の中で鑑賞したいなと思います。

千手観音坐像(京都・清水寺)

飛躍の舞台へ。東大寺再興

阿弥陀如来立像(裸形)(兵庫県・浄土寺)

とても大きな立像で、しかも珍しい半裸姿の阿弥陀如来です。

半裸姿で表現することで、若々しさを表し、まるで修行中の釈迦のように感じます。

さらに全体的な肉体のバランスがリアルなので、胸の隆起を見ていると、生きているように呼吸をしているような印象があります。

優しげな表情からも、この仏像が人々の信仰を長い間集めていたことがわかります。

この仏像が完成し浄土寺に運ばれ、開眼法要された当時は、周辺地域の人々にさぞかし喜ばれたのではないでしょうか。

その人々の喜びの声が聞こえてきそうな、素敵な阿弥陀様です。

阿弥陀如来立像(裸形)(兵庫県・浄土寺)

四天王立像のうち広目天(和歌山県・金剛峯寺)

普段は高野山に安置されている天部の仏像。

どっしりと下半身に重心を置き、邪鬼の上に立つ姿は、鎧姿と相まって重厚感にあふれています。

広目天は筆と巻物を持っていますが、何を記録しているのでしょうか?

それは広目天が「千里眼」の能力を持ち、広い視野で人々の行いや、この世を見て、そこから得た情報を記録しているそうです。

四天王のうち、他の仏が武闘派なのに対して、広目天は甲冑をまとっていますが情報監査役という感じでしょうか。

厳しく睨みをきかせる目つきの先に、何を読み取っているのかな?

広目天(和歌山県・金剛峯寺)

執金剛神立像(和歌山・金剛峯寺)

以前高野山で見た仏像が、こうして博物館でじっくり見ることができるのは感動モノです。

稲妻のように天空から、轟音とともに降り立つ蔵王権現のような姿。

足の肉体表現の造形が素晴らしい。

岩を掴む足の指、岩を砕かんばかりに力強く踏み降ろされた足の指の表現が、本当にすごい。

筋肉のブロックのひとつひとつに力がみなぎり、しかも頭の先から足の先まで、肉体内部を流れるエネルギーの流れを感じることができます。

ここまで肉体を誇張した仏像は、他の仏師の作品では、見られない表現です。

頭部を象徴するのは、逆だった髪の毛。

何を罰しようとしているのだろうか。

何に怒っているのだろうか。

執金剛神立像(和歌山・金剛峯寺

深沙大将立像(和歌山・金剛峯寺)

まさかこの仏像と今日、ここで再会できるとは思いませんでした。

何度見ても、また見たいと思わせる、一度見たら絶対に忘れることができない異形の仏です。

高野山で見た時は、暗い場所に安置されていたので、「こんな明るい所に姿を晒すな!」と凄まれているような気がします。

首に骸骨の首飾りを付け、臍には顔面が浮き出し、左手には蛇を巻いているという、まるで黄泉の国の追うという風貌です。

背中の筋肉の盛り上がりもすごい!

所々に朱色が残っているので、かつては極彩色に輝いていたのでしょう。

当時はどんな姿だったのでしょうか?

そして、この仏像はどんなふうに人々の前に迎えられたのでしょうか?

深沙大将は、快慶の想像力と造形の巧みさを思う存分堪能できる仏像です。

深沙大将立像(和歌山・金剛峯寺)

阿弥陀如来立像(奈良・東大寺)

人々の心の拠り所となり、人々とともに一体となれる仏像つくるという快慶の想いが詰まった作品です。

この仏像からは、本当に人を思う強い信仰と愛情を感じます。

阿弥陀如来像の表情は、一見すると一切の感情を封じ込めた静かな感じで、祈る人々をただ静かに見守ろうという気持ちが伝わります。

拝みに来る人々の声を、静かに傾聴しているかのようです。

こうして考えると、この阿弥陀如来は今風に言うと優れたカウンセラーとのようなものです。

僕も快慶の作る阿弥陀如来像のように、見る人がセルフカウンセリングできるような作品を作りたいものです。

阿弥陀如来像 東大寺

大日如来坐像(滋賀・石山寺)

何も飾りをつけない大日如来は、シンプルなだけに表現が難しい仏像です。

快慶の大日如来は、ふくよかな体つきと精悍でありながら温和な表情が特長です。

運慶の大日如来は、精悍さとみなぎるエネルギーを感じます。

大日如来坐像(滋賀・石山寺)

快慶が模索しながら創作した祈りのカタチを堪能してから

この展覧会を見て、あらためて快慶が民衆と仏の祈りの架け橋になるようにという思いで、木を刻んでいたことがよくわかりました。

特にここまで阿弥陀信仰に心血を注いでいたとは思わなかったので、その作例の多さにも、彫りのこだわりにも感動しました。

何のために木を彫っているのか?

何に対して木と語り合っているのか?

現代の資本主義の社会では、なかなか体現できない祈りとともにある生き方の姿勢を、快慶は示してくれているように思います。

▼快慶と運慶の関係を紹介したアニメーション(博物館内で上映されていました)

 

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