顔面が割れて、十一面観世音菩薩が現れるという姿を表現した仏像が、ビジュアルイメージに使われている「木×仏像 飛鳥仏から円空へ。日本の木彫仏1000年」という展覧会を観てきました。

僕は過去に仏師の修行をしていた経験もあるのと、自然や巨樹探訪が趣味なので、日本人の仏教信仰と樹木の関係性をどこまで語り、観せてくれるのか、とても楽しみにして行ってみました。

木×仏像展入り口

日本人は、なぜ仏像を木で作るのか?

2017年5月10日水曜日、週末は混むだろうからこの日に休みを取れたのはよかった。
場所は大阪市立美術館で、前に来た時は違法占拠したテント小屋などがたくさん並んでいたけど、当時の面影はすっかり無くなって、とてもきれいな公園に変わっていました。

しかし、どんなに日本人が暮らす環境や社会変化があっても、木に対する畏怖の念は何千年も変わることがないというのが、とても不思議です。
もちろん木造の住宅が今でも多かったり、国土のほとんどが森林だったり、重厚な木造建築が残る寺院や、巨樹が立つ神社の境内など、すぐ身近に木がある環境という影響もあると思います。

樹木は生き物であり、切られても空気中の水分を吸い取り、成長を続けるといいます。
大陸から仏像が日本にやってきた頃は、木製ではなくて鋳物や脱活乾漆造でした。

いつの頃からか、木で仏像を作るようになったのですが、樹木に宿る存在と、仏教がリンクして仏像を刻み始めたというのが日本人らしい感性の現れだと思います。

美術館で仏像を鑑賞する意味

普通は仏像はお寺で観るものですが、あくまでも拝む対象としての存在なので、近づいてじっくりと観ることはありません。

しかもお寺の中は暗いので、細部までは観ることもできないし、ましてや背面を伺うことはできません。

でも、美術館では後背も外された状態で、仏像を「美術品」として360度から鑑賞することができます。

これだけでも、美術館に行く価値があります。

そして、展示されている仏像は、正面から観ることになるので、身体のバランスがおかしいことに気づきます。

僕が観ていた時も、近くの人が「この仏さんは足が大きすぎるね」「これは顔が大きすぎるね」「なんだか手が長くて変だ」と言っていたのが聞こえました。

でもそれは正面から観たり、見下ろして観るからであって、本来の見方ではありません。

寺に安置されている時は、少し高いところに安置されていて、こちらは仏像を見上げるようになります。

そうすると不思議と身体のバランスが、調度良い状態になるのです。

だから美術館で観る仏像も、バランスがおかしいと感じたなら、一度しゃがんで見上げるようにすれば、その理由がわかるし、仏師の計算された技術に驚くはずです。

仏像が朽ちても信仰心は朽ちない

木×仏像 飛鳥平安

最初は飛鳥、奈良、平安時代初期の仏像が迎えてくれます。

展示室内は薄暗く、寺に安置されている状態を再現されているような照明がされていてとても見やすい。

さすがにこの時代の仏像は、部分的に朽ちていたり、トルソー状態のものがありますが、その状態でも仏像の持つ霊威を感じてしまうのは、自然の生き物としての樹木に宿る魂を感じるからでしょうか。

説明書きにありましたが、中国では仏像が古くなると彩色を塗り直したり、金箔を張り直ししたりして、常に鮮やかな状態に保つそうですが、日本人はそれはしないという。

装が煤で真っ黒にくすんでもそのまま、漆が剥がれてもそのまま、仏像が朽ちたり割れやヒビがはいってもそのままにしていることが多い。

つまり仏像がどんな姿になっても、仏には変わりがない。

宿った魂は永遠に生き続けるという、日本人の宗教観によるものだとか。

姿で信仰心が揺らぐことはない、という考えがあるから。

このようなことが書かれた説明書きを読んで、それまで意識したことが無かったけど、妙に納得してしまいました。

平安時代の仏像は表情が豊かです

平安初期の仏像を横から見ると、唇が尖っているのに気が付きました。

正面から見ると、静かに微笑んでいるように見えるのですが、横から見ると唇を尖らせて、目の前の人に語りかけている様子に見えました。

見る角度によって様子が変わるという、これは面白い発見でした。

でもこれが鎌倉や江戸時代など、時代が新しくなると写実的になりすぎて、このような表現が薄れてしまいます。

仏師の遊び心というか、抽象的な感情を演出する技術が初期の仏像ほど豊かなんだと思いました。

東大寺 弥勒如来坐像

特に東大寺の弥勒如来坐像は、面白い。

後ろから見ると家にいるお父さんの丸まった背中を想像させる可愛い面もありますが、顔を見ると先述した特長がよくわかります。

体のバランスも正面から見ると、頭でっかちですが、しゃがんで見上げるとちょうどいい顔の大きさに見えます。

圧巻の地蔵菩薩の展示室

展覧会の中心には、地蔵菩薩を集めた展示室があります。
木目の迫力に圧倒されたのは、欅の一木造り平安時代の地蔵菩薩立像(蓮花寺・大阪)です。

地蔵菩薩

この仏像を見ると、木は切られても1000年以上生き続けているということがよくわかります。

応仁の乱のときに難を逃れるために池に沈められたことも、乾燥を防ぎ、木の成長を維持させたのかもしれませんが、頭から顔面に浮き出た深い木目は、生命力が持つ執念を感じさせます。

そして、この展覧会のイメージにも使用されている、宝誌和尚立像(京都・西往寺)です。

宝誌和尚立像

顔が真ん中で2つに割れて、中から十一面観世音菩薩の顔が覗いているという奇抜な仏像です。

それに加えて鑿(ノミ)跡を残す技法で作られていて、木目に沿って鑿跡を付けられているわけでなく、仏師が美しいと思う方向でつけられているので、見ごたえがあります。

宝誌和尚立像

第2展示室は鎌倉時代~江戸時代の仏像ですが・・・

少し離れたところにある第2展示室に入ると、等身大の勇ましい四天王像が迎えてくれます。

彫りもぐっと写実的になって、鎌倉時代独特の仏像です。

しかし、ここに運慶や快慶の作品はありません。

たぶんこの展覧会に、慶派の仏像があると思い込んでいる人も多いのではないでしょうか?

奈良で快慶展、東京で運慶展が開催されるから、その影響で借りる事ができなかったのかなと推測してしまう。

それでも、煤けて真っ黒になった天部像は迫力があります。

双眼鏡で拡大して見ると、わずかに残っている美しい彩色をみることができるので、当時の絢爛豪華な四天王の姿を想像することができます。

そして、展覧会のタイトルにもある「円空仏」ですが、「十一面観世音菩薩立像」と「秋葉権現三尊像」の2作品しか無かったので、期待していただけにちょっとがっかり。
もう少し作品を展示してほしかったなぁ。

全体感想

全体を見終わってみると、うーん、なんだかいまいち消化不良の印象が否めない。
木像に絞ったテーマはとても斬新で良かったんですが、木と日本人の信仰の関わりについて、もっと掘り下げることはできなかったのだろうか? と思ってしまう。

仏像に限って言えば、やっぱり慶派の仏像が欲しかったなぁ。

そして今回は大阪の寺院から出展された仏像がたくさんあったので、大阪にもこんなに興味深い仏像を安置している寺院があるのだと、これは良い発見でした。

おまけのコレクション展

どこの美術館でも常設展がありますが、大阪市立美術館にもあり、コレクション展として開催されています。

企画展を観た後だったのでなおさらですが、ほとんど立ち止まらず素通りしてしまった。

コレクション展に予算は掛けられないのでしょうが、もうちょっと観る側の気持ちや関心事に配慮した説明なり、展示をしてほしかったなぁ。

 

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